お金について

 久しぶりの更新

ずっと前から考えてきたことなんだけど

昨日だったかな?

阪急電車の車内広告が炎上してたので、今のあたまのなかをまとめてみたいと思う。

 

ボクが課題として抱えているのは毎月35万円。これが多いのか少ないのかは不明だけど、奥さんと話して出てきた金額がコレ。ぶっちゃけ毎月足りない。休みが多かったり残業が少ないと確実にショートする。こんな感じだ。

 

そこでやっと、本当にやっとボクは重い重い、ホントに重い腰を上げて作戦を開始した。まずはコレ。断捨離から。と言っても、ボクが持っているお金になりそうなものはコレくらい。本やCD、DVDは不要なものはもう処分しちゃったからね。

こんな記事を目にしたところから、戦いの一日が始まります。

 

とりあえず、ブログに記述のあったメジャーなお店へ行ってみると、衝撃の結果が…。

たしかに特にレアなモノでもないし、メンテしていないから、とてもいい状態ではない。メジャー店では5,000円から1万円だねって結果。(こりゃまずい…)
ハルクちゃんに変身した、奥さんの顔があたまに浮かびます

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メジャー店を後にして、裏通りや横道の中小店舗へ。すると…。

こんな感じ。コレは想像なんだけど、メジャーなお店は、手間ひまコストをかけずに販売したいのかな?と。それと、ボクみたいにとりあえずメジャー店から査定してもらいに行くんだろうね。状態のいい品物も集まりやすい。

で、結局…。

「もう一声お願いできませんか?」と粘った結果、この金額で買取していただきました。この金額を提示してくれたのは、裏にあるアコギ専門店。

「きっちりメンテして販売します!ありがとうございました!!」って

気持ちよすぎだし、こっちが「ホントにどうもありがとう!!!」です。

たぶんボクの部屋で眠っていた、いや、死んだように生きていたギターは復活して、また日の目を見ることでしょう。メデタシメデタシ。

ググって見つけたブログ記事から始まって、ブログの通りには行かなかったけど、御茶の水に持ち込める人は可能な限り複数の店舗で査定してもらった方がいい。お店によってニーズも考え方も違うからね。お店によっても、査定してくれる人によって違うような気がします。

 

お金に執着のないボク。逆に言うと、お金を大切にしないボクにとってはかなり刺激的で勉強になる一日だった。

 

こんな一日から、お金に対する意識が少しづつ変わってきて、こんなことを考えるようになった。

方法が色々あるのは知っていたんだけど、面倒くさがりの性格が邪魔をして、ずっと手を付けてこなかったのね。邪魔をして…。ではないね。単に面倒くさかっただけ。でも、稼ぐために無理をするってのは、ボクにとってもっと苦手で嫌いなこと。

だから、

「どうすれば楽しくできるのか?」っていつもあたまに置いていることを今回も使うことにした。ボクの趣味は映画を観ること。かなり好きだし、観ながら眠ることで、ボクは毎日自然にオンからオフに切り替えができていると思っている。無理に「考えない」とか「心配しない」とか「気にしない」なんて思う必要がない。ただ、映画を選んで、その世界に浸るだけ。いつの間にか眠って、朝を迎える。

ボクの一番の趣味をもっと充実させるには…。
ググってみると…

あるんだよね…

知っている人にはなんでもないことだし、当たり前の方法なんだけどね…。

 

やるか

やらないか

 

その違いはホントに大きい。楽しむことでお金に変わるってイイね。あ、そうそう。色んな動画サイトに登録して実際観てみた印象はまた今度書いてみようと思う。それぞれに特色もあるし、観たかった作品も

「あっちでは観れないけど、こっちでは観れるじゃん!!」

ってことも多々ある。

楽しすぎる…

ホント

観たかったドラマなんかも観れたり…

最終話は原作とは大きく異なっていた。

まさかの涙腺崩壊(笑)。

 

 

映画を観るために時間を工面するにはどうすればイイか…

楽しい仕事を続けるためには満足できない「お金」をどう工面すればイイか…

 

試行錯誤はまだまだ続くけど、求めれば与えられるようだ。ネットには嘘もあるけど、ホントもある。トライアンドエラーを繰り返すことを厭わなければ、実現するための方法は多いような気がする。

坊主頭って一周回ってもダサいかな?

坊主頭って一周回ってもダサいかな?

質問箱にこんな質問をもらったんだけど、面白いんだけどTwitterの140字で答える自信がないのでブログにさせてもらいます。いつも通り結論から言うと、キミの主観が変わらない限りダサい。何周回ってもダサいものはダサい。ボクの坊主観は最後に。

さて、坊主頭ってどう思いますか?世の中にはいろんな坊主頭があります。仕事柄坊主頭の人もいるし、長いのが嫌な人、坊主頭が好きな人、仕方なくの人などなど。ダサいかダサくないかは後ほど考えてみたいと思いますが、まずは今回の質問を分解して考えてみましょう。

 

 

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坊主頭って一周回ってもダサいかな?

坊主頭って 一周回っても ダサいかな?

坊主頭ってダサいかな? と 一周回っても に分けてみます。

坊主頭ってダサいかな?って質問されたらどう答えますか?個人の主観や価値観によりますよね?ダサいって言う人もいれば、ダサくないって言う人、知らんがな!って言う人など、答えは様々だと思います。実際は坊主頭そのものより、誰が坊主頭にしているのか?と言うのが重要だったりします。ボクのようなただのおっさんの坊主頭はダサいかもしれませんね。映画「マトリックス」でのキアヌ・リーブスの坊主頭はカッコいいと思いますし、映画「V フォー・ヴェンデッタ」のナタリー・ポートマンや「エイリアン3」のシガニー・ウィーバーの坊主頭もカッコいいと思います。頭の形も綺麗だったりするんですけどね。

 

話を戻しましょう。

一周回っても ですが、ボクはここがおかしくってね。

なんで一周やねん!

坊主頭の人が一周するんだろうか?それとも坊主頭を見ているボクが一周するんだろうか?なんだか考えてると訳が分からなくなります。そう。ここは本題から目をそらすための罠ですね。一周だろうが百周だろうが変わりません。いや、もしかしたら、汗だく、苦悶の表情で百周する坊主頭を見て、感動し、

「坊主頭ってカッコいいじゃん」

って価値観が変われば、状況は変わってきます。

坊主頭ってダサいかな?も、坊主頭ってカッコいいかな?も、価値観の問題であって、決めるのは自分自身。世界中でたった一人になっても、坊主頭ってダサいと言う事が自分の中の譲れない価値観であるならば、そこは死守しましょう。ちょっとつつかれてぐらつくなら、自分とは異なる価値観ものぞいてみてはどうでしょうか?

 

坊主頭の思い出

ここでボクの坊主頭の思い出を。ボクには強制的に坊主頭にされた思い出と、自主的に坊主頭にした思い出があります。強制的坊主は中学の部活での「連帯責任」。理由は忘れましたが、連帯責任で全員職員室の外で強制坊主。意志に反する坊主頭はほんと嫌でした。この時は坊主頭ってダサいって思いましたね。

 

自主的坊主は、髪型を気にする必要がなく、髪を切る行為がとても煩わしく感じたので。気分的にはとても気持ちがよかった記憶があります。この時は、坊主頭もなかなかいいじゃん!って思いました。

 

ボクはボクです。年齢的には大きく違いますが、ダサいといいじゃん!を分けるのはボクの主観や気分。ちなみに、誰かにダサいと言われたことも、いいじゃん!と言われたこともありません。あくまでボクの主観と気分の違いだけです。

 

坊主頭って一周回ってもダサいかな? ボクからの質問

 この質問を見たとき、実はこう質問したかったんですが、質問箱は匿名なので答えてもらえる気がしなかったので、やめました。

「キミはどう思う?」

 

今回のような質問はボクにとってはご馳走みたいなもので、考えるきっかけとしては最高の素材です。このブログを読んだ質問者さまはどんな風に感じるんでしょうね?

 

坊主頭って一周回ってもダサいかな? ボクの答え

ボクはボクの好きな人が坊主頭だったら、ダサいなんて言わないだろうね。きっと頭を撫でて、ペタペタ叩いて、スリスリすると思うよ。え?嫌いな人だったら?決まってるでしょ?思いっきり「ダサ!」って言います。そんなもんさ。

 

もしキミが坊主頭だったら?こんな楽しい質問をしてくれたキミの坊主頭にスリスリしたいかな?ダサいなんて言わないだろうね。

 

世の中は主観で動いています。主観なんていい加減なものです。この記事も完全にボクの主観。だから、誰がなんと言おうと、キミはキミの主観を大切に。

 

以上。

最後まで読んでくれてありがとう。

 

 

感動するほど綺麗なものを土足で蹴散らせる心理

こんな投稿を目にしたんだ。

で、どうしても書きたくなったんだ。

 

ボクの日々の仕事の中に「花切り」と呼んでいる業務があります。告別式の最後に、式場に飾った花をバッサバッサ切って、ご遺族が棺を花でいっぱいにしていきます。

一種の背徳感情

というのはたしかに日々感じます。生花を、まだ枯れた訳ではない花を灰にするために切り倒す行為。たくさんの花で美しく飾った祭壇を破壊する行為。

 

ボクの仕事は、散りゆく花の儚さや美しさを、人為的に演出する仕事なのです。

 

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春になると桜が咲きます。そして咲いたかと思うと、あっという間に満開を迎え、そして風に舞散ります。通夜前に一気に満開の状態を演出し、告別式の最後にあっという間に散りゆく美を演出します。

 

ボクの仕事は、創造と破壊です。どちらかだけという仕事はたくさんあると思います。でも、ボクの仕事は両方を毎日行います。

 

元々ボクには破壊衝動があります。ある日突然、それまで積み上げてきたものを壊したくなることがありました。今は日々創造と破壊を繰り返しているお陰か、とても穏やかな日々を過ごせています。

 

この仕事に就くまでは、花になんて全く興味がなかったのにね。不思議だねぇ。生きることは偶然を積み重ねること。だから面白いんだよね。

 

未来はまっ白なんだとボクは思う。まっ白な事に怯える人もいると思うけど、偶然という絵の具を使って、好きなように描ける訳だから、ボクはワクワクするんだけどな。全て指定されて、で、ヘタクソな絵しか描けなかったらがっかりでしょ?ボクはボクが好きに描いてヘタクソだったら満足だけどな。

 

なんて、なんだか取り留めのない投稿だけど、まぁいいか。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ボクがプライベートな写真を投稿しない訳

ボクがプライベートな写真を投稿しない訳

 

ボクは不器用ですってお話は、前々回の投稿で致しましたが、不器用が故にSNSから離れるタイミングが分からなくなることがありました。

hitokatsu35.hatenablog.jp

 

ずっとiPhoneの画面とにらめっこして、目の前の人を放置して...

 

今回はそんなボクが、プライベートや日々目にする景色をほとんどアップしない理由を紹介したいと思います。以前目にして、とても心に残ったコラムも紹介したいと思います。

 

 

まずは目の前の前の人を大切に

Twitterでこんな投稿を目にしました。

この投稿で思い出しました。嫁さんとの大げんか。まだFacebookをしていた頃の話です。2013年9月13日、日産スタジアムで行われたB'zのライブ中に勃発しました。

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ライブ中もiPhoneを頻繁にいじるボク。

嫁さんがひと言

「気分悪いからもう帰れ」

ボクは嫁さんの楽しみにしていた時間をぶち壊した訳です。

それまでも何度となく言われてはいたんですが...。

とうとう怒りが爆発しました。

 

「チケットを予約してからの時間、ライブ中、そしてライブが終わってからの時間。全部返してくれる?」

 

無理ですよね…。

 

さすがに猛省しました。で、考えました。

「不器用なボクにはどっちかしかないだろう。」

するかしないか。

その日から、嫁さんと一緒の時はSNSをしないことにしました。そんなこんなで、次第にプライベートな投稿はしなくなり、

「ボクは何のためにFacebookをしているんだろう?」

そんな疑問が浮かぶようになりました。あるFacebookグループが終了して、いよいよFacebookの目的が無くなったのを期にアカウントを閉じました。

 

目の前の人を大切に

目の前の人を大切に出来ないヤツが、会ったこともない人を大切にできるんか?

 

そんなことがあって、投稿のための写真はほとんど撮らないので、iPhoneの中は仕事用の写真ばかり。でもね、ホントに不器用なので、このくらいやらないと、また同じことをやらかすので、ボクはコレでいいんです。

大切な人を大切にしなきゃ私の幸せは生まれまない。

ホント、そう思います。

 

投稿のための撮影をしない

コレって、SNSをする人にとっては致命的かも?なんて思いますが、ボクは別の地平を歩みます。タイムリーな投稿もしないだろうね。投稿してる間に終わっちゃうでしょ?料理だってさ、出てきてすぐ食べた方が美味しいでしょ?写真撮って、アップして、しばし反応をチェックして...なんてやってたら、一番美味しいタイミングを失っちゃうし。そんな風にボクは思います。勝手ながら、そういうのはボクの役割じゃないんだよね。

 

最初は目の前にいる人を大切にするためだったのですが、いつも間にか、一人の時でも撮らなくなりました。ボクのSNSはどれも「あたまのなかの可視化」だからねぇ。必要無くなっちゃいました。

 

1歳の息子の写真を5000枚撮った。今、僕はすごく後悔している。

 

この投稿、初めて目にしたのはFacebookだったと思います。科学者であるお父さんが綴った懺悔と後悔の投稿です。まずはご一読ください。

 

www.huffingtonpost.jp

 

この投稿はこんな言葉で結ばれています。

ありのままの現実、何にも遮られない、赤ちゃんの様子を楽しもう。あなたの子供が大声で笑う音に耳を澄まそう。お尻を振って踊る姿を見つめよう。そして、彼らがあまり優雅でない格好で、歩く練習をするのを見ながらクスクスと笑うのだ。そうやって、彼らが成長し新しく挑戦をしていく様子を、「本当の記憶」として残すことができるのだ。

 

どなたの言葉だったか忘れましたが、有名なスポーツ選手が、「記録より記憶に残る選手になりたい」と言っていました。

 

成長記録としてなのか、それともただのデータ収集なのか。そして、後に共に想い出を語り合うためなのか、それともSNSで己のエゴを満たすための撮影なのか。

 

片手は子どもの手を引いて、片手はスマホ。そして子どもではなく眺めているのはスマホ。そんなお父さんお母さんをよく見かけます。

 

この記事のお父さんの様に、後悔しないことを祈ります。

 

ちなみにボクは子どもの頃からのアルバムを持っていません。卒業アルバムも。全部捨てちゃいました。だって見ることないからねぇ。iPhoneの中に数枚残しているだけ。ボクにとっては古いアルバムより、今の方が大切だし、これから作る想い出の方が必要です。

 

記録より記憶だと思うし、スマホの液晶画面越しで見るより、直接見て記憶に焼き付ける方がボクはいいんじゃないかな?って思います。レンズ越しの距離より、手をつないだり肩ぐるまや抱っこをした方がいいんじゃないかな?って思います。

 

目をつぶって、溢れ出す記憶の方がずっと幸せに浸れると、ボクは思います。これは、子どもとの想い出に限りません。パートナーや友人、同僚、仲間、全部同じ。

 

記録より記憶

 

最後に

やっぱりボクはSNS向きじゃないですね(笑)

SNS必用とされるもの、良いとされているものをことごとく拒否しています。でも、ボクはボク。強制する気もないし、あくまでもボクはこんな感じが好きってだけ。ちなみに、SNSで見かける親子写真も、お子さんの写真も、ボクは好きです。生を感じるからねぇ。

 

みんな生きてるねぇ

うれしいねぇ

幸せだねぇ

 

いつもそんな風に思います。

 

これからもボクは、キミの投稿する写真を見て楽しむだけ。

 

だから

 

どうもありがとう

 

最後まで読んでくれてありがとう

ボクがSNSに向いているたった1つの理由

ボクがSNSに向いているたった1つの理由

前回の投稿では、ボクがいかにSNSに向いていないかを書いてみた。

 

hitokatsu35.hatenablog.jp

 

実のところはずいぶん前からこの事には気づいていて、今回はそれでも形を変えて続けているたったひとつの理由を書いてみようと思います。結論から言うと、好きだから。これ以外に見つからないんだよね。

 

じゃあ「何で好きなんだろう?」をTwitterの投稿を振り返りながら考えてみたいと思います。

 

 

 

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好きって何だろう?

楽しいことばかりじゃない。これは前回の投稿にも書いたんだけど、ボクにとってのSNSは楽しいことばかりじゃないんだよね。このアカウントは2011年8月から始めましたが、その前3年くらい別のアカウントでTwitterをしていました。ブログもFC2で映画ブログをやってました。SNSとの関わりは10年くらいになります。

 

この3年間はボクの黒歴史。病み期と重なります。身から出た錆なんですが、SNSでは怖い体験もしました。ほんと、呆れるくらいアホでしたね。

 

で、好きって何だろう?って考えてみたら、楽しくないこと、不愉快なこと、自分の愚かさに凹むこと、いろいろあっても、それでも続けるって事なのかな?って思います。ひとことで言うなら、嫌いになれないってこと。

 

じゃあ、どうして嫌いになれないんだろう?ってのを考えてみたいと思います。

 

SNSを嫌いになれない理由

また、Twitterへの投稿を振り返ってみます。

 

こころの激震

ボクは映画が大好きです。映画を観るのも、やっぱりこころの激震が欲しいから。でも、SNSから伝わる想いって特別で、生々しい。ボクにはその人が感じたこと、体験したことを想像することしかできないんだけどね。映画といういわば虚構の世界とは違う、会ったこともないけど、いつも見てるから、勝手に身近に感じている人たちの想い。今までに何度も味わってるから、少々のことでSNSを嫌いになんてなれないです。

 

気にかけてくれる人がいる

出会いはFacebookでした。詳しくは彼のブログを読んでいただけると分かるんですが、ココではブログに書いていないエピソードを。

 

彼のブログのひとつに、伊藤人語 —彦根夢京橋読書会ーというのがあります。この中で、たしかコレだったかな?人との関係を考えるー真夜中の幸福論 | | 伊藤人語を目にしてこの本を読み始めて、それから新刊が出る度に読むようになりました。

たまたま、著者様のイベントがあって、ボクのために本にサインをいただいて、ついでに(ウソ)彼の分もサインしてもらって贈りました。

ボクからしたら、ボクの生き方にかなり大きな変化をくれた彼へのせめてもの、そしてささやかな贈り物でした。

そのおかげではないと思いますが、何故かずっと気にかけてくれます。ボクみたいなFacebookのアカウントを突然削除する様な自己中で不器用で、人の気持ちが分からないアンポンタンをどうして見捨てないのか不思議なので、いつか質問してみたいです。

彼みたいな人がいるからSNSは嫌いになれない。

どうもありがとう。

 

そして最後

刺激

 

ボクは今、SNSTwitterとこのブログしかしていません。厳密にはブログはSNSではないので、Twitterからの刺激だけ。ネットニュースもめったに見ないし、テレビも見ない。だからTwitterでフォローしている人たちからの情報がほぼ全て。

 

今はこの旅のことがかなりの割合を占めているんだけど、とにかく刺激という事では彼らからが今、いちばん大きい。オンラインサロンのメンバーに会うために、今、3人で日本一周している。しかもテント泊。関東の旅が終わって、これから東北、北海道へ。

 

とにかく事故なく、安全第一でゴールする様に祈ってます。ちなみにボクはオンラインサロンのメンバーではありません。だからこうしてブログに書くのは告知ではなく、ホントに今ボクのあたまのなかに入ってくる情報の中では一番刺激的だから。それに、誰も読まないに近いブログだからねぇ。書いたところでねぇって話。

 

え?でも、そんなに刺激的なら何でオンラインサロンに参加しないんだ?って???ボクは参加条件がないからねぇ。Facebookしてないし。

 

ちなみにオンラインサロンの主催の御三方も、メンバーの皆さんも、ボクみたいな参加していない、いわゆるよそ者にも分け隔てなく接して下さいます。きっと、オンラインサロンの主旨に共感して参加している人達だからかな?。

 

旅の模様は、Twitterハッシュタグ#わいざんどうでしょう hashtag on Twitter#kussun日本一周 hashtag on Twitterから

 

リアルとSNS。どっちが重要か?になると間違いなくリアルなのですが、刺激はまた別。ボクにとってはどちらも重要。人の活動や思考ほど刺激的なことはないですから。SNSの中にいるのは生身の人間。動画や写真なんか無くったって、言葉の力って凄いんだよね。ボクにとっては言葉からの刺激の方があたまに響くみたいです。でも、どんな言葉が刺激になるのかはボクにもよく分からないし、タイミングにもよります。なるべく丹念に追いかけることが出来るように。Twitterのフォローを100までにしてるのはボクのぽんこつあたまの許容範囲が故。実はコレでも多いくらいの情報と刺激を日々頂いてます。

ありがとう。

こんなに刺激的なんだから、嫌いになんかなれないよね?

 

まとめ

3つの嫌いになれない理由を思いついたんですが、結局、ほとんどが会ったことの無い人なのに、毎日眺めていると親近感が湧くもので、「ああ、みんな生きてるね」って不思議な感覚が湧きます。

 

ボクの仕事は葬儀専門の花屋。毎日亡くなった方とご遺族に接することになります。この仕事を始めて2年半。以前より増して、ボクの他の誰かが生きている実感を欲しているみたいです。

 

まぁ、実際は生きている人達と仕事をし、家族と接しているので、それでいいんちゃうの?って話ではありますが、それはとても狭い世界なので、もっともっと実感が欲しいのでしょう。ボクは欲張りなのかもしれませんね。時に、SNSの人たちから感じる生きてる感の方が本物のように感じることがあります。

だからSNSを嫌いになれないんですよね。

どうもありがとう。

 

あ、結局、好きってより嫌いになれないって結論になっちゃったけど、まぁ、いいか

 

最後まで読んでくれてありがとう

ボクがSNSに向いていない3つの理由

ボクがSNSに向いていない3つの理由

ボクがSNSに向いていない理由が判明したので発表します。先に言っとくと、自己中過ぎて、不器用で、人の気持ちがよく分からないから。

 

詳しく知りたいって奇特な人は、先へ進んで下さい。9つはTwitterから、最後のひとつはココだけの話。

 

では

 

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自己中 その1

フォローは、まぁ、分かるよね。自分で関わりたい人をフォローするのはキミも同じだよね?でも、フォロワーまで選ぶってどんだけ自己中なんだろね?

 

自己中 その2

知りたいのも自分の中の欲求。多くのことはネット上で解決するから、大抵ググって終わる。でも、どうしても分からないことがある。キミのあたまのなかのこと。だから時々、聞いて欲しくない質問をして困らせたり悩ませたり不快にさせたりしたっけ…。

 

 

自己中 その3

基準はボクのあたまのなか。なので、みんなが楽しそうにやってても、やらないことの方が多い。やりたいことがたくさんあって、やりたいと思えないことをわざわざやる時間がないのね。自己中と言うより頑なとか不器用って言葉の方が合ってるかも?

 

不器用 その1

不器用。そう。ボクは不器用。かなり不器用。ボクは褒めるのも褒められるのもどうでもいい。褒められたからと言って、ボクの気分が良くなることはないのです。

世の中にはそうじゃない人の方が多いらしい。「褒められると伸びるタイプ」なんて言う人もいる。褒める代わりにボクは「好き」って言います。時々誤解を生みます。やっぱり、不器用です。

 

自己中 その4

あたまのなかの可視化。ボクのあたまのなかを晒して何になる?コミュニケーションより己の刺激のため?笑うよね?コミュニケーションが大切なSNSなのにボクは向いていないって公言してるみたいなものですね。

 

自己中 その5

あたまのなかの可視化は、ボクのため。SNSを使うのは、ボクに都合がいいから。ボクはボクを炙り出すために感じ、考え、書く。だから楽しいことばかりは書けないし、キミにとっては全く価値のないこと、おもしろくないこと、嫌なことも書く。ボクはボクが何なのか知りたいんだ。

 

自己中 その6

楽しいこともあれば、グサッとくること、ボクにとっては都合の悪いことも目にする。ボクが求めていることは、考えるための刺激。だからこれでいい。不快をどうすれば快にできるか?しないという選択もあるけど、それでいいのかな?ってちょっとシックリしなくてね。

 

自己中 その7

コレをするには、ボクはもっと探しにいかなきゃいけないんだろうね。あたまのなかをのぞいてみたいと思う人を。どっちかって言うと消極的だと思う。

 

自己中 その8

休日になると、投稿のために写真を撮りに行ったり、写真映しそうなご飯を食べたり、誰かと会ったり...。ほぼ、なし。ボクは基本ぐーたらだし、出不精。家でグダグダしてる方がいい。

 

と、自己中と不器用しかない。そりゃあかんよねぇ。向いてないと思う。ブログもFacebookも突然削除したりするしね。ホント、ボクだったらまず関わらないだろうね。だって、ワケわからんもん。

 

で最後の3つめ。

ボクは

人の気持ちが分かりません

コメントとか見てると、みんな人の気持ちがよく分かるんだねぇって感心する。ボクは自分のことはかなりよく分かるようになったと思うけど、人の気持ちは未だによく分からない。気配りとかムリ。

 

ボクは想像してるだけ。気持ちが分かる訳じゃない。SNSには共感力が高くて、人の気持ちがよく分かる人がたくさんいるみたいなんだ。だからそういう人が向いてるんだろうね。

 

でも、これがボクなんだよね。向いてないなら向いてないなりのやり方があると思うし、どんなやり方がいいのか分からないけど、試行錯誤って好きなので、向いてなくても続けるんだろうね。

 

過剰にプライベートを晒すつもりも、自撮りする気もない。晒すのはボクのあたまのなかだけ。本名は別にいいんだけど、嫌いだから使わない。姓名判断の婆さんが7つ候補を上げて、あまりにもへんてこで、消去法で決まった名前を好きになれってのが無理な話。

 

なんかどんどん脱線してるねぇ。

まぁいいか。

自己中なんだから。

 

自己中の人は徹底しないと、ある日突然、電池切れになるのでご注意下さい。

 

自戒を込めて

言葉のない世界

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言葉について考えてみたい。普段何気なく使っている言葉。この記事、もしかしたら痛いかも?最後はハッピーエンドだから大丈夫だと思う。

 

田村隆一氏の詩「帰途」を、構成をバラバラにして引用させてもらいます。

では

 

言葉のない世界

意味が意味にならない世界

言葉があるから人は誤解し、理解する。言葉のない世界を想像してみたら、浮かんだ言葉は「虚無」だった。言葉はコミュニケーションのために生まれたと思っていたけど、コミュニケーションは二次的なもの。

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

虚無の世界。ただ眺め立ち去る。感じることも考えることもない世界。苦痛はない。苦悩もない。無感動無目的の世界。ただ生存している、生存のために生きる世界。生存のためということすら理解していない世界。動物よりももっと原始的な生物の状態。

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

キミの涙に意味を見出すこともなく、キミが流す血に痛みを想像することもなく、この世のものとは思えない様な美しい夕暮れを眺め感動に涙する。そんなごくあたりまえのことがない世界。そんな世界を想像できるだろうか?

日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる

言葉は残酷だ。言葉がある事でボクはキミの痛みを想像する。その場を立ち去ることを躊躇させる。何も出来ないもどかしさや自己嫌悪をボクに与える。

 

言葉のない世界を想像してごらん?

 

たとえ痛くて辛くて苦しい世界でも、言葉のない虚無の世界よりはいい。

 

言葉なんかおぼえるんじゃなかった

この詩はこんな言葉から始まる。言葉なんかおぼえるんじゃなかった。言葉のない世界を想像してごらん?もし言葉がなかったら、想像することもできない。苦はないけど幸もない。痛いことを、苦しいことを伝えることもできなきゃ、理解することもできない世界。うれしいこと楽しいことを共に感じ、喜び合うことのない世界。

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

もし、言葉がなかったら。ボクはキミと無関係だ。ボクはキミがどんな状況でも無関心だしただ傍観するだけ。言葉のない世界では逆も同じ。キミも無関心な傍観者になる。

 

言葉のない世界を想像してごらん?

 

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

ボクは感じたい。いや、感じることはできない。ボクはキミじゃないから。言葉のある世界でもできないこと。だからその代わりに、五感を通して伝わる感覚を総動員して、ボクはキミを想像する。もし、言葉がなかったら、想像することすらできない。

 

言葉のない世界を想像してごらん?

 

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

どうだろう?やっぱり言葉なんかおぼえるんじゃなかったかな?言葉は凶器にもなれば癒しにもなる。人は言葉によって理解し、傷つけ、励まし、分かち合う。最初にも書いた通り、言葉はコミュニケーションのためというのは二次的なもの。言葉は意味なんだ。言葉は存在なんだ。そして言葉は意思なんだ。言葉をどの様に用いるかは、ボクとキミの意思にかかっている。

 

田村隆一詩集『言葉のない世界』より、帰途を引用して、言葉について思うところを書いてみたんだけど、きっかけはこんな本を読んだからなんだ。

新世界

新世界

 

この本の最後に「人間賛歌」という章がある。とても印象に残った言葉を紹介したい。

何より嬉しかったのは 、 「人間は 、汚い言葉よりも美しい言葉を優先的に選ぶ生き物である 」ということが分かったことだ 。ボクにとってみればこれが一番嬉しい発見で 、希望で 、これからも人間にうつつを抜かして生きていきたいと思ったよ 。

 

言葉を大切に使おう

きっと、ボクのこともキミのことも、他の誰かやいろんなこと、モノを大切にすることだと思うから。

 

最後まで読んでくれてありがとう

関係を深めるために一番簡単なのに一番見かけない方法

 

質問箱ってのを作ってみました。
こんな質問をいただいたのですが、質問箱にも文字数の制限があるので過去記事をまとめておきます。

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

 

 

この記事書き終わったら下の3記事のリライトをします。

 

hitokatsu35.hatenablog.jp

hitokatsu35.hatenablog.jp

hitokatsu35.hatenablog.jp

 

では本題へ。

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関係を深めるために一番簡単なのに一番見かけない方法

何だと思いますか?
結論からお伝えすると、質問することです。
な〜んだ!って思ったキミは質問ってしてますか?ボクは結構ツイッターのレスを読んでる方だと思うけど、質問してる場面に出くわすことはほとんどないです。多くは投稿を読んで、それに対する意見や感想。一生懸命読んで、感じて、考えてと言うのは伝わってくるんだけど、果たして投稿者さんは満足してるんでしょうか?

 

質問が生まれる理由


質問が生まれる理由は疑問と興味・関心です。投稿者に対するものもあれば、投稿内容に関するものもあります。疑問を抱えたままコメントをするのって難しくないですか?ボクにはとても難しいので、分からないことががあると質問します。的はずれなコメントをするよりましだと思うんですよね。

 


質問しない理由を考えてみました

思いついたのはこんなこと。

  • え!?そんなことも知らないの???
  • 手間をかけるんじゃないだろうか?
  • そもそも質問をする発想がない
  • 意見や感想を言わなきゃ(それも気の利いたものを)

他にもあると思いますが、これほどレス内で質問を見かけないのにはきっと理由があると思います。何か思い当たりませんか?

 

質問で拡がる会話

 

質問することで会話は広がります。会話が苦手な人は質問に徹してみてはどうでしょう?人というのは基本的に語りたいものです。だから質問されると大喜びで答えてくれます。

例えば

 

今日の天気は晴れ

という、圧倒的に情報の少ない投稿を目にしたとします。少ない情報だからこそ質問のしがいがあります。

  • 暖かいですか?
  • 寒くないですか?
  • 明日はどうですか?

など、質問も単純ですが会話は始まります。実際ここまで単純なやりとりはしないと思いますが…


配慮も必要

もしかしたら質問しない理由の一番多いことかもしれませんが、気の遣いすぎ。質問したい事があったらしていいんです。ただ、答える答えないは先方の自由。だから期待しすぎないこと。返信がない時は相手にも事情があるので追いかけすぎないこと。質問しないのが配慮ではなく、返信のないことに腹をててるのが配慮が足りないということです。

 

 

最後に

ボクがSNSをする理由は、あたまのなかの可視化好奇心を満たすこと。だからこれからは分からないこと、疑問に感じた事があったらどんどん質問したいと思います。これはこんな反省もあります。

 

ボク、語りすぎじゃないだろうか?

 

こればっかりは、質問してみないと分かりません。

どう思いますか?

 

こんな感じで、投稿の中で質問することもできますし、ボクは考えるきっかけという意味ではべき論を展開されるよりはずっとすんなり受け容れる事ができます。

 

逆に疑問があれば質問して欲しいなって思います。ボクのあたまのなかの可視化にとてもとても役に立つ事ですから。

家族会議

昨夜のこと

嫁さんとの会話の中でこんな質問をされた

 

何のためにTwitterをしているのか?

何のために人活をしているのか?

 

ひぇー!!って感じ(笑)

 

思わず、

 

キミはボクか?(笑)

 

って聞き返した

 

何のためにTwitterをしているのか?

 

これはTwitterでもたびたび呟いている通りで、

 

ボクのあたまのなかの可視化

 

手を動かし、視覚を使い、ボクはボクのあたまのなかを覗く。あたまのなかで考えているだけでは見えてこないものが見えてくることがある。Twitterを使うことで、何がしかの反応をもらうことで、よりスッキリしたり、全く違う思考が芽生えることもある。スマホのメモアプリではなくTwitterを使う目的はそういうこと。

 

なんてことをつらつらと話したらこちらは納得したみたい。

 

何のために人活をしているのか?

 

無目的(笑)

なんとなく

 

納得しなかったので、保留。そりゃそうだよね。逆の立場だったら納得しないかもなぁ?なんて思うので、ちょっと考えてみる。

 

実名、顔出しが信用や親近感の前提

 

Facebookには、あえて実名顔出しで人を騙す人がたくさんいるよね?

あるいは会うことを前提にやるなら顔だした方が手間は省けるけど、ボクは会うことはそんなに重要じゃないんだよね。

それにボクはボクのあたまのなかを可視化するためにTwitterをしてる訳だから、実名も顔出しも必要ないんだよね。

共感を求め、賛同者を探している訳じゃない

 

とはいえ、反応していただけることは、ボクにとってはメリット以外の何ものでもないので、とても感謝しています。ボクのあたまのなかの可視化、そしてボクの成長を手伝って下さる訳ですから。

 

話を戻そう。

 

ボクがTwitterをする目的に、実名も顔出しも必要がないというのが前提で、ただ、アカウント名も画像も必要なので、人活という名前を使っているのよね。

 

ただ、ボクはこの名前が好き。

社会的に通用する名前ではないけど、人活さんの方がボクらしいし、認知されるならこっちの方がいい。

 

本名を知らない

顔も知らない

でもなんか呟いてるし、なんかよくわからんけど、

ちょっと気になるアカウント。

 

ボクはそんな存在でいいんです。

長いことSNSをしているので、探せば実名もどんな顔してるのかも分かると思うので、隠してる訳じゃなくて必要を感じていないだけ。

 

思いつくまま書いてみたけど、

ね?

何のために人活さんなの?

って無目的でしょ?

 

必要を感じない

それだけ。

ボクはボク

まあ、必要になれば晒すし、お会いした人が一緒に写した写真をアップしても全然OKだし。

 

嫁さんは納得してくれるんだろか?

 

まあいいや。

とりあえずTwitterをすることは反対してないからねぇ。SNS絡みで、嫁さんにはいろいろと心配や不快な思いをさせちゃったからねぇ。

 

何の結論も、何の役にも立たない内容だねぇ

 

最後まで読んでくれた人へ

ごめんよ

でも、ありがとう

電話に出ただけで考えてたことを忘れるボクが好き

こんな投稿を読んだんだけど、

心に浮かんだことを、つらつらと書いてみます。

先にお断りしておきますが、

脱線します(笑)

 

応援されると嬉しいよね?

じゃあ応援してくれる人が誰もいなかったら...。

誰もいない...。

ホントにホント?

ひとり忘れていないかな?

 

キミだよキミ。

 

キミはキミを応援しないのかい?

 

ここからはボクの話。

ずっと前、ボクはボクを見放したことがあって、孤独というのがどういうものか身にしみたことがあります。ボクがボクを見放すと、ホントに孤立無援。もう、どうしていいのか分かんないの。

 

長くなるので端折りますが、紆余曲折あれやこれやありまして、ボクはボクを見放すのをやめました。それ以来、誰も応援してくれなくても、ボクはボクを見守り応援し続けてます。

 

ボクはボクが大好きだし、宇宙で一番大切です。特に理由はないんだけどね。大切にされるとか、好かれるとか、愛されるとか、そんなのはどっかへ行っちゃって、大切にする、好きでいる、愛するって考え方に変わったからかもしれないね。

 

ボクのなかでは、応援されるなんてのは、奇跡みたいなもので、宝くじが当たるみたいなもの。

 

と、ここまで書いたら、電話が...。

 

話したら、この先に何を書こうと思ってたのか忘れた(笑)

 

コレがボク。こんなボクが大好きです。

 

思い出したら追記するけど、たぶん無理だろね。とにかく、キミの一番の応援団長はキミだってことだ。応援されるとか、好かれるとかより、夢中になれ。夢中の人ほど美しいものはない。

 

かも?

 

 

脱線して、戻そうとしたら、どうでもよくなった話

お題「最近見た映画」

 

はてなブログにはこんな機能がある

 

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ネタがない...

ブログを書く人には1度や2度、3度や4度

あることだよね

 

アメブロにも同じ様な機能があって、

書くお手伝いをしてくれる。

 

ここまで書いて、ハッとしてグッときたんだけど、

 

ネタが無い

 

のではなくて、

 

書く気がないだけだね。

 

でも、それもOK。

ムリに書く必要はないからね。

 

自分のためのブログだったら、

誰も責めないからね...

 

 

と、ここで安心しないキミは、知ってるよね?

 

そう。

 

責める人がひとり。

 

キミだよ、キミ。

 

書かないことへの罪悪感、自己嫌悪

 

凹むもよし、バネにするもよし

 

ボクのブログじゃないからね〜

 

 

あ、お題のことすっかり忘れてた

 

何だっけ???

 

最近観た映画だったね

 

昨晩、「ユージュアル・サスペクツ」を観たよ。

 

カイザー・ソゼって誰だ?

 

以上、傑作映画の紹介でした(笑)

 

チョー適当だね。

≧(´▽`)≦アハハハ

つれづれなるままに

徒然なるままに

日ぐらし

硯に向かいて

心にうつりゆくよしなし事を

そこはかとなく書きつくれば

怪しうこそ物狂おしけれ

 

徒然草の冒頭。

書くという行為は、時代が変わっても、これに尽きるのではないだろうか?

 

記録したい、伝えたい、整理したい。

書く目的は様々。目的なしに、感じたり、考えたりすることなしに、ボクは何かを書くことができない。

 

書きたいことがあるから書く。

逆に書きたいことがなければ書かない。

 

いつもこんな風にシンプルな考え方でいれたらいいのだが、仕方なく書かなければならない時もある。例えば、仕事の報告書なんてのがそうだろう。

 

ところで、SNSで発信することが苦痛に感じることはないだろうか?

 

どんな時に苦痛を感じたか考えてみた。

他者の発信に焦りや嫉妬を感じた時に、苦痛を感じることが多かった。幸せそうな投稿、楽しそうな投稿、とてもためになる投稿、そして多くの共感や賞賛を獲ている投稿。承認欲求と、劣等感が原因。

 

ボクの場合、「書きたいから書く」という、シンプルで穏やかな考え方とは真逆の状態に陥ると、苦痛を感じることになる様だ。

 

ならばどうすればいいのだろう?

そこで、一度全てをリセットすることにした。

ブログやFacebookも閉じ、このブログもいったん放置。とりあえず、Twitterだけ更新の状態。ただ、Twitterも今までの承認欲求と劣等感の残骸が数多く残った状態。今の状態を知るにはあまりにかけ離れた状態だった。

 

そこで考えたのが、減量。Twitterに状況をメモしながら開始。以下、Twitterの引用。

 

この辺りまでは、実に弱気だ。「とりあえず」なんてことばが象徴している。どこまで減量するか、葛藤していた頃。

この辺りになると、覚悟を決めた感がある。ようやく受け容れた模様。受け容れると、視界が拡がり、今まで見えてなかった、見ようとしなかった視点が現れる。

己のダメさを隠す気もなくなり、降参モードに入ると、失敗を役に立てようとし始める。あたまの中に置いておくだけも可能だったが、シェア。成功ネタより失敗ネタの方が役に立つから。

 

先が見えない状態から脱し、次に何をするか目的を見つけた状態。ここまで来るとあとは早い。

 

そしてTwitterの減量は終了。完全に仮面を被った状態から、丸裸にした。この一連の作業を、冷たいと感じる人もいるだろう。「新しいアカウントを作ればいいじゃん」って人もいるだろう。ボクは自分への戒めとして、この作業を行った。戒め以上に、このアカウントに愛着があったから、無くす選択は浮かばなかった。

 

つれづれなるままに。

ボクはブログが好きだ。好きなことができない(実際はしないだった)のは、ストレスフルな経験だった。たまたまだが、先日Twitterを始めて7年のお知らせが届いた。ちょうどいい区切りになった。

 

140文字で考え、語る。Twitterの面白さはあるが、ブログの無制限の世界は捨て難い。

 

つれづれなるままに書ける状態が戻ったことが嬉しい。

雨の日、人は解放されるのでしょうか? 

台風一過。

晴れたの1日だけ。

そしてまた台風接近&今日は雨。


いつの頃からでしょう?
雨をうっとおしいなって思うようになったの。

子供の頃、雨の中、傘をさして、わざと水溜りを
バシャバシャ歩いたりしませんでしたか?
晴れているのが当たり前で、雨はちょっとしたイベントだったのかも?
もしくは、雨でも楽しむことができたのかも?

映画の中には、雨の中で心を解放するシーンがなぜか多いんですよね。
いずれの作品も大好きです。
そして、いずれのシーンもとても印象に残っています。


まずは、この作品から
ショーシャンクの空に
主人公がショーシャンク刑務所を脱獄した直後のシーンです。

 

 

 



続いてはこのシーン
Vフォー・ヴェンデッタ
主人公が自己愛に目覚め、抑圧と恐怖から解放されたシーン。

 

 




こちらは、映画「ラスト・エンペラー」のワンシーン。
清朝最後の皇帝溥儀の側室が離婚を決意し、雨の中飛び出していきます。

 

 




映画、「ブレードランナー」のワンシーン。
主人公との死闘の末、命尽きるシーン。
過酷な生涯を生きたレプリカント(人造人間)にとって、
死は終わりではなく解放のように思えてなりません。

 

 

 



最後は、映画「雨に唄えば」の有名なシーン。
喜びを全身で表現していますね。

 




あなたも解放してみませんか?

お葬式は誰のためのもの?

亡くなった人を送るため。

もちろんそうなんですが、

遺された人のために必要な時間であり、

区切りの場です。

 

ボクの親父は、何も決めずあの世へ逝ってしまいました。

何をどう処理すればいいのか、どこに何があるのかさっぱり分からず、大騒ぎだった記憶があります。

 

葬儀に関しても同じで、葬儀担当者と打ち合わせしながら一つづつ決めていくしかありません。

当然、故人の意思は分かりませんので、遺された人の勝手な意味づけの下、アレコレ決まっていきます。

 

葬儀を行うと、少しですが時間ができます。

処理をしたり、心の整理をするためのほんの少しの時間が。

(最小限の処理しか出来ないし、心の整理もできないかも?ですが...)

 

エンディングノートを書く人が増えている様ですが、ボクの個人的な考えは、

 

「遺された人が困らない様に」

 

それだけでいいと思います。

アレコレ希望を書いたりすると、遺された人たちは、

「それを叶えなきゃ」

に縛られます。

 

遺された人が困らない様に、一日でも早く、前を向ける様に。

 

エンディングノートにはそれが書いてあれば充分なんじゃないかな?って思います。

 

死んだら火葬場へ。遺骨は引き取り拒否。

 

ボクはそれでいい。

 

わが家ではボクが嫁さんを看取ることになっていますが、こればかりは分かりません。

 

もし万一、ボクが看取られることになったら、

一日も早く前を向けるようにしておくことが、

ボクにできることだし、

「生きている間にやっとかなきゃ」って思う、

数少ないことの一つ。

 

 

 

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将来の

ではなく、眠っている時に観る夢の話。

今の仕事(葬儀専門の花屋)をする様になって観る夢。

飾っても、飾ってもまた最初から飾らないといけない夢。

最初は夢なのか、現実なのか区別がつかず、

目を覚まして苦笑いなんてことが度々あった。

 

最近は夢か現実かの区別がつくようになり、

「ハイハイ、夢ね...。今日はもう飾り終わったよ」

って感じ。

 

そんな感じになると、夢自体観なくなった。

 

さっき久しぶりに仕事の夢を観た。

見知らぬ誰かと仕事をしている夢だった。

 

相手はあまり慣れていない様子。

「人手が欲しいと切実に願う様になったから?」

なんて、適当な夢診断をしてみた。

 

書きたいことはまだあるが、またの機会にしよう。

夢の続き、観れるかな?